残暑の候│03

 株式会社フォーワーズの社員食堂は広く、弁当持参の社員もここで食事を摂れるようになっている。櫻花以外にも弁当を 食べている社員は多く、かつ、自社製品の弁当箱を使用している者も多い。だから本来であればそうそう目立つはずもないのだが、今日は弁当箱とは別にタッパ を持参しているため、どうにも人の視線が気になって仕方が無い。
 どうせなら、ということでいくつかの具材で卵焼きを複数作って持ってきたのだ。それらは昨夜暖かいうちに食べた残りなのだが、岡崎は味付けが同じでも具 材が違うだけで新鮮だと言ってはバクバクと食べてくれた。果たして若手二名にそれが通じるのか、櫻花は「なぜ弁当を作ってくることになったのかの尋問タイ ム」という本来の趣旨を忘れ、甘い卵焼きは有りか無しかの判定を待つという気持ちでいっぱいだった。
 今日は二人同時に定食を買いに行き、櫻花が席を確保しながら待っていた。そこへふらりとやってきたのは、特に約束もしていなかった尚美だった。ここ最 近、尚美とはいつも木曜日に昼食を一緒に食べているので、予定外の行動に驚きを隠せない。
「どうしたの?まだ火曜日だけど」
「うん、ちょっと面白い話を小耳に挟んだもので」
「面白い話?」
 尚美は櫻花の隣に座りながら、黙って弁当箱を指差した。それを見た櫻花は、一体どこからその話が漏れ伝わったのかと、本気で頭を悩ませる。が、それが解 決したのは一瞬だった。
「あ、西本さん、こんにちは!」
「こんにちは」
「しのちゃ〜ん、今日はお誘いありがとう!」
「しのちゃん……?」
 尚美と中畑がキャッキャと挨拶を交わし、そこに入っていけないでいる淡口も一応挨拶だけはしていた。
「二人はいつからそんな仲良しなのかな?」
 櫻花は笑顔を若干引きつらせながら訊いてみた。すると二人はにっこり笑って「うふふ」と笑うばかり。淡口も苦笑いをしたまま口を開こうとしない。
「無駄話してるとご飯冷めちゃうから、早く食べよう。ほら、しのちゃんも淡口くんも座った座った」
 尚美に促され、二人もいそいそと席に着いた。見れば二人とも焼き魚定食で、櫻花の作った卵焼きを食べる前提でおかずを選んでいるらしく、小鉢などは一切 追加していない。
 櫻花は二人の期待度の高さに怯みそうになるが、とりあえずこれを食べさせておけば全てを有耶無耶にできるのではないか、という淡い期待を抱いてタッパの 蓋を開けた。
「……これ全部卵焼き?」
「わ、いっぱいありますね!」
「これなら遠慮なくいただけます」
 半ば呆れ顔の尚美とは対照的に、中畑と淡口は声を弾ませているのでほっと一安心した。
「あっ、これねぎじゃなくてニラだ!」
「こっちは明太子が入ってます」
 いただきます、と言ってから真っ先に卵焼きに手を出した中畑と淡口は、いちいち中の具材に驚きながらも美味しい美味しいといってどんどん卵焼きを平らげ ていく。
「これだけ作るの大変だったんじゃない?」
「ううん、そうでもないの。最初に卵液を作っておいて、後はそれを小分けにして具と混ぜて焼くだけだから」
「そうかもしれないけど、中身をこれだけ揃えるのは大変だったんじゃない?」
 尚美はそう言うと青のりの入った卵焼きをぱくりと頬張った。
「焼いても焼いても終わらないから、今自分が何をやっているのか判らなくなりかけたのは確かね」
「それ考えるとプロって凄いわね」
 櫻花と尚美は妙なところでプロの凄さに感服し、揃って社員食堂の厨房に目を向けた。行列のピークは過ぎたものの、社員はまだまだカウンターに並んでい る。毎日これだけの数の社員が食べる昼食を作るのは、どれほど大変な作業なのか二人には想像もつかなかった。
 櫻花達がお喋りをしながら食事をしている間に、タッパの中身はどんどん減ってゆき、あっという間に空になってしまった。
「篠塚さん、ごちそうさまでした。凄く美味しかったです」
「俺は甘い卵焼き初体験だったんですが、これはこれで有りですね」
「二人の口に合ったようで何よりでした」
「で、ですね」
 中畑は、いよいよ本題に入らんとばかりに定食の盆をよけるとずいを身を乗り出した。
「これだけの卵焼きを作るのって相当大変だったと思うんです。本当にありがとうございました」
「どういたしまして?」
「で、私、気付いてしまったんです。これ、はじっこ入っていないですよね?ていうか、真ん中の二、三切ればかりが詰められていたわけですよ」
「そ、そう?」
「残りの卵焼き、結構な量になると思うんですけど、どうしたんですか?」
 なかなか鋭い指摘をされて、櫻花は返答に詰まってしまう。
「そう言われてみればそうね。一人で食べるの大変な量よね、これ」
 尚美が更に追い打ちをかける。
「今日のお弁当のおかずも昨夜の残り物なんですよね?俺でも腹いっぱいになりそうです」
 淡口が余計な一言でとどめを刺しにきた。
「で、本当のところはどうなの?」
 といったことを異口同音に問われ、なんとか誤魔化そうとしたのだが、とうとう根負けして白状することにした。
「実は彼氏と一緒に住みはじめました……」
 その言葉を聞いた中畑と淡口は大声を出しそうになった口を慌てて押さえて黙り込み、尚美はいいことを聞いたといった顔でニヤリと笑った。これは後で色々 聞かれるのは間違いないだろうと、櫻花は背筋が凍る思いだった。
 住所変更等の手続きの書類を総務に提出しているが、人事担当ではない限りその情報に触れることはないし、それが人事以外に漏れるということはない。だか ら尚美もその事実を知らず、今初めて聞いて驚きを隠せないと同時にこんなに早くバレてしまうなんて櫻花らしい、とある種の微笑ましさを感じている。
 何があってそうなったのかなど想像に難くなく、どうせ岡崎が強引に押し切ったのだろうと思ってはいるものの、詳しく話しを聞き出す必要はありそうだ。尚 美は、午後の仕事の配分を素早く計算し、終業後に喫茶店かどこかへ櫻花を連行する計画を立てていた。
 その場の会話に混じりながら素早くメールを送り、櫻花の反応を見る。いきなりブルリと震えたスマホに櫻花は驚き、他の二人は期待に目が輝く。
「彼氏サンですか!?」
「ううん、友達。今日の仕事終わりに会おうよ、っていう連絡よ」
「なーんだ、つまんなーい」
「ちょ、中畑さん!あの、篠塚さん、か……彼氏さんとはそういう連絡は取り合わないんですか?」
「そう言われてみれば、あんまりないかも……」
 同じ職場で働いている上に生活を共にしており、なおかつそれを秘密にしているため仕事終わりに待ち合わせてデートといったことをしていないことに気がつ いた。そういったことに憧れがないといえば嘘になるが、だからといって無理をしてそういうイベントを起こそうという気にもなれない。
 それはやはり普通ではないのだろうかと落ち込みかけたが、それよりもまず尚美にどう返信するべきかを考えた。今までであれば特に悩みもせずにすぐオー ケーの返事を出していたのだが、今はそういうわけにはいかない。
 とりあえず岡崎に事情を説明してから、とポチポチとお伺いのメールを認める。さり気なく食堂を見回してその姿がないことを確認してから、送信ボタンを タップする。
「今日はお友達と約束が出来たんですよね?俺、あんまり迷惑かけないよう頑張ります」
「ううん、まだ判らないから。でも頑張ってくれるのは嬉しいかな」
「えっ、もしかして彼氏サンにお伺いメール送ってたんですか!?」
「へぇ、櫻花の彼氏ってそんな束縛野郎だったんだー。ちょっとこれは同期として見過ごせないわね」
「違っ、そんなんじゃなくて!」
「じゃあどんなのよ?」
「もしかしたら帰るのが遅くなるかもしれないけど、その時の晩ご飯はどうしたら?とか色々と聞くことがあるなあと思って……」
 語尾がゴニョゴニョと小さくなっていき、最後は聞き取れなくなる。
 櫻花は、会社で何を力説しているんだという恥ずかしさと、尚美にからかわれたという恥ずかしさのダブルパンチを食らったような気分だった。
 真っ赤になって俯いているところへ、再びスマホがブルリと震えた。岡崎からの返信である。そこには「どうせなら家に来てもらえば?」と書かれており、そ のうち夫婦で招待しようと言っていたことが早々に実現することになりそうだ。といっても尚美の夫である江川が忙しいため、今日の今日で時間が作れるわけが ない。夫婦揃っての招待というのはお預けになりそうだ。
 とりあえず岡崎の提案を尚美に伝えるべくメールを送る。ところが彼女のスマホはうんともすんとも言わず、メールが届いているのかどうか判断がつかなかっ た。
 櫻花が不安になっているところで、昼休み終了十分前の鐘が鳴った。尚美、中畑、淡口は慌てて食器を下げに行き、櫻花は広げていた弁当箱とタッパを仕舞 う。
「じゃあ櫻花、またね」
「うん」
 櫻花達と尚美は食堂前で別れ、それぞれ企画課と総務課へ急いで戻っていく。
 訊きたかったことに答えてもらった中畑はご機嫌で、鼻歌など歌いながら今にもスキップをしそうなほどウキウキしながら歩いている。反対に淡口の方は、聞 いてはいけないことを聞いてしまったといった感じで妙に口数も少なく眉間に皺など寄せている。
 後輩達の対照的な態度を不思議に思いながらも、櫻花は尚美からの返信が来るのかとやきもきしていた。



「あれは絶対櫻花の彼氏が誰か知ってるわね」
 広いキッチンで、櫻花と尚美は一緒に夕食の準備をしていた。あの後、尚美が江川に「今夜岡崎家にお呼ばれしているけど来られそうか」と尋ねたところ、二 つ返事で行くと連絡があったのだ。ただ、さすがに定時で会社を出るのは無理なので、少し遅れて行くということだった。
 そこで櫻花達は会社帰りに夕食の材料を仕入れて帰り、二人で準備をしているところなのだ。
 そして先ほどから尚美が言及しているのは、どうにも淡口の態度が怪しいということだった。
「どうせ課長がよからぬことを考えて味方に引き入れたとか、そんな所でしょうけどね。でも何もないのにそれをする理由はないし……ああ、そうか。そういう ことね〜。淡口くんも可哀想に」
 一人でぶつぶつと呟いていた尚美が結論に達したところで、今度は今日の本題に話を移した。
「で、どうしてまたこんなことになってるのよ?」
「うん、それがね。うちの神社の夏祭りに行った時にそういう話になっちゃって」
「いきなり?」
「いきなり」
「それは……上手いことしてやられたわね」
 だいたいのことを察した尚美が苦笑いをする。
「でもまあ、ご両親も承諾の上ならもうどうしようもないわね。諦めなさい」
「諦めるって……」
 尚美の言い草に何か釈然としないものを感じたが、櫻花も薄々感じていたことなので何も言い返せなかった。
 それから二人して夕食の準備を進め、岡崎が帰宅するのを待ちながらあれこれと近況報告――というより一方的な質問攻め――が行われるのだった。