錦秋│01

 広いガラス張りの部屋、森の中の開けた土地。そして向こうに見える山々は色づき、秋の訪れを感じさせる。
 櫻花は今、栃木県にあるツインリンクもてぎに来ていた。そのVIPスイートで、岡崎が見たいと言っていたレース観戦をしているのだ。
 岡崎は、櫻花が初めてサーキットに来たということや季節的なものも考えて、通常の観戦席ではなく屋内の観戦席を取っていた。屋内なのでレース本来の楽し さを味わうことはできないが、このサーキットは山の中にあるということもあり気温が低い。座席は硬いプラスチック製で、冷えが直接伝わってくる。自分一人 なら一も二もなく屋外の観戦席にするのだが、興味がないのについてきてくれている櫻花にそんな苦行を味わわせるわけにはいかないということで、少し奮発し たのだった。
 今日は土曜日で、レースの本番は日曜日だ。ではなぜ土曜日にサーキットに来ているのかというと、練習走行と、明日の決勝レースでのスタート順位を決める 予選があるのだ。
「これはもう予選ってやつが始まってるんですか?」
「いや、これはフリープラクティスって言う練習走行。車の調子を見るのが主な目的だな」
「車の調子を見る……」
「モータースポーツが他のスポーツと違う所って何だと思う?」
「え?えーと、車を使ってること、ですか?」
「まあそうだな。車にしろバイクにしろ飛行機にしろ、マシンを操縦する競技なんだよ。で、そのマシンの性能が結果に大きく影響するわけだ」
「なんだか不公平ですね」
「普通ならそう思うだろうなぁ。野球なんかでもそうだけど、チームによって資金力に差があるわけよ。そうすっと、金のあるチームはいいマシンが作れるし、 貧乏チームはそうはいかねえ。それどころか、乗る人間に金を持ってこさせることになる」
「金を払えば乗れるってことですか?それもまたどうかと……」
「そう思うよなー。まあそういう世界だから金持ってるチームが勝つと思うだろうけど、そうじゃねえ場合もある。だからなんとかマシンを調整して速く走れる ように工夫する。そのために必要なのが、この練習走行ってわけ」
「なんか色々と難しいんですね」
 解りやすいようにかみ砕いて説明してくれているのは判るのだが、いかんせんそちら方面への知識が全くない櫻花には、何やら難しいことが色々と行われてい る世界だという認識にしかならなかった。
 それでも、ただ車を走らせているだけだと思っていた櫻花にしてみたら、今聞かされたような内容はどれも驚きに満ちていた。レースに参加するのはお金がか かるんだろうな、ぐらいのふわっとした知識しか持ち合わせていなかったが、まさかドライバーからお金を巻き上げないといけないぐらい大変だとは思ってもい なかった。
 そういえば、とふと思い出したことがあり、櫻花は岡崎に質問をした。
「威夫さん、威夫さん。昔のアイドルの人がレースやってるのってこれですか?」
「よく知ってんな、そうだよ。これだけじゃなくて、他のカテゴリー、えっと、他の種類のレースにも参加してるぞ。チームオーナー兼監督としてだけど」
「車には乗ってないんですか?」
「だってあのオッサンもう五十をとうに過ぎてるだろ?乗れるわけねえよ」
「へぇ」
 ドライバーはただ運転すればいいだけなので年齢など関係ないかと思いきや、どうやら違うらしい。これまた新たな驚きだ。
「同じ所をぐるぐる回ってるだけなのに、大変なんですね」
「あー、そうだな」
 櫻花の言葉に岡崎は苦笑いだ。これはモータースポーツファンなら誰もが一度や二度ならず言われていることだからだ。確かに同じ所をぐるぐる回っている が、それだけではないからレースは面白いと思っている。ただ、それを力説しても仕方がないし、付き合いでもなんでもここまで来てくれているのだから、どう せならもっと興味を持ってくれるような話をした方がいいと思ったのだ。
 モータースポーツ自体の面白さを説くのはもう少し後にすることにして、まずは櫻花が食いつくかもしれないようなことを言ってみる。
「あのドライバー達、元F1ドライバーもいっぱいいんだぞ」
「F1って、あの凄く速いやつですか?」
「そ。西本の旦那の庸ちゃんが好きなやつ」
「ああ、なんかそんな話してましたね」
 五月に二人が初めて会った時、車の話で盛り上がっていたのは櫻花も覚えていた。その時にF1だのSuperGTだのという単語が出てきたが、二人の間で どういう会話が交わされていたのかなどさっぱり解らなかった。急激に仲良くなる姿を、尚美と二人で不思議がっていたのは覚えている。
 スポーツには全く造詣がない櫻花にとって、これまで触れる機会のなかったものを見せてくれる岡崎は、とんでもなく広い世界を持っているように見えた。一 応お菓子作りという趣味は持っているものの、それはとても内向きなものである。こうして趣味のために出掛けていくという経験がなかったため、目に映る全て が新鮮だ。
 そう思って櫻花が部屋を見回すと、自分のように明らかに“よく判らないまま連れて来られた”といった感じの人ばかりではなく、派手なデザインのシャツや ジャンパーを着込んだカップルや親子連れなどもいる。
 その派手なデザインの服は種類も多く、ワッペンが縫い付けられたものから昇華プリントされたものまで様々だ。以前野球場でファンがユニフォームを着てい るのを見かけたことがあったが、あれと同じようなものなのだろうか。櫻花は気になって岡崎に尋ねてみた。
「威夫さん、威夫さん」
「ん?」
「あの人達が着てるのは何ですか?」
「ああ、あれはチームウェアだ。欲しいのか?」
「いえ、そうじゃなくて。いっぱい種類があるなあ、と思いまして」
「古いのもあれば新しいのもあるからな」
「古着ってことですか?」
「十年前、二十年前に買ったのを未だに着続けてる人もいるってこった。古いウェアをずっと着続ける人もいれば、毎年買い換える人もいるからな」
「そんなに柄が変わったりするものなんですか?」
「いや、そうでもねえな」
「それなのに、毎年?」
「こだわりポイントなんて人それぞれだからなぁ。しかもあれ、すっげー高ぇんだぜ」
「そうなんですか?」
 そんなに高い服を毎年買い換えるとは、きっと皆金持ちなのだろうと櫻花は思った。チケットに印刷された金額を見て驚いたが、そんな高額チケットを買える 上に岡崎をして凄く高いというチームウェアをぽいぽい買うような人は、自分とは住む世界の違う人達だとしか思えない。
 しかも岡崎によくよく話を聞いてみれば、今日と明日に行われるレースだけではなく、年間数戦あるもの全てを観戦する人もいれば、場合によっては海外で行 われるレースにも足を運ぶ人もいるという。
 レースというのは出場する方も観戦する方も、どちらもお金のかかる大変なスポーツなのだなあ、と櫻花はただただ驚くしかなかった。
「なんだか凄い世界なんですね」
「しかも聞いて驚け。国内のレースはこれだけじゃねえんだ」
「そうなんですか?」
「F1みたいなオープンホイールのフォーミュラカー……タイヤ剥き出しの屋根がないレーシングマシン見たことあるか?」
「なんとなく想像つきます」
「ああいうのが走ってるレースも国内で年間数戦行われてて、これとそれ、どっちも観に行く奴もいる」
「うわあ」
 一体どれだけお金をつぎ込んでいるのか、他人のことながら想像するだけで恐ろしくなってくる。
 櫻花は、はぁ、と大きな溜息を吐いて椅子に座り直すと、ガラスの向こうに目を向けた。趣味というのはどの分野でもお金をいくらでもかけられるものだ。か くいう櫻花も、お菓子作りの際に材料に凝りかけたことがあった。ただ、いい材料というのは上を見ればきりがない。ネットで色々調べ、値段を見た途端我に 返ったことがあったのを思い出していた。
 チームウェアなどの形に残って何度も使えるものならよいが、お菓子の材料など食べてしまえば跡形もなく消えてしまう代物だ。プロでもないのに高い材料を 使って、失敗した日には目も当てられない。そう思ってごく普通にスーパーで手に入れられるものを使うようにしている。
 そんなことをぼうっと考えながら見ていたガラスの向こうでは、車が出たり入ったりしている。車を一台走らせるために、色んな人達が協力しあっているのが 目に見えて、きっと運転している人もやり甲斐を感じているのではないかと櫻花には思われた。それがもし、お金を払って乗せてもらっている立場だとしたら尚 更だ。
 今の自分の仕事を思い返してみて、このように様々な立場の人達に支えられているのが目には見えず、その実感もほとんどない。だが、自分が考えた商品が実 際に販売されるようになるまでには、実に多くの人の手を借りている。
 判りやすいのは商品開発課や製造部門の人達だが、そもそも自分達が働くのを陰で支えてくれている非生産部門の社員達が一番大事だということを、目の前で 行われている自動車レースを通じて自覚させられていた。
 そうこうしているうちに午前中の練習走行が終わり、いい具合に腹も減ってきたところで昼食と相成った。食事は栃木県の名産品を中心にした料理が用意され ており、これも観戦チケットの料金に含まれているのだという。
 漆塗りの器に盛られた料理達はどれも美しく、非常に手の込んだ仕事がしてあるものばかりだ。
「食べるのが勿体ないぐらい綺麗ですね」
「いや、食わない方が勿体ねぇだろ」
「もう!そういうことじゃなくて!」
「わはは!ちっとは気安く喋ってくれるようになったじゃねぇか」
「あっ……」
 家でも会社と変わらずずっと敬語だった櫻花が、咄嗟に出たとはいえ親しげな言葉使いをしたのが嬉しかったらしく、岡崎は弁当を食べながらずっとニヤニヤ と目尻が下がりっぱなしだ。
 櫻花の方はというと、やってしまったというよりしてやられたといった気持ちが強く、恥ずかしさを誤魔化すためにとりあえず弁当をスマホのカメラに納める ことにした。後であちこちで撮った写真と一緒に尚美に送るつもりのようだ。
 ご機嫌な岡崎とは対照的に、やや情けない表情を浮かべている櫻花だったが、それでも弁当を食べ始めるとその表情は一変する。
「美味しい〜!」
 満面の笑みで幸せそうにもぐもぐと食べている姿が岡崎の心を擽ったらしく、箸を持つ手が止まったのにも気付かないまま櫻花が食事をする姿を眺めていた。 そのせいでつまんでいた肉がポロリと落ちてしまい、ボトッという音で我に返った。
 慌ててそれをつまみ上げ、何事もなかったかのように口に放り込む。櫻花はそれに気付かず、相変わらず幸せそうに食事を続けていた。
「そんだけ喜んでくれるんなら、連れて来た甲斐があったってもんだな」
「ご飯も美味しいですけど、ここのレース場も面白いですよ?」
「あー、じゃあ今度はもっとでけえ遊園地がくっついてる所行こうな」
「はい!」
 櫻花は思いの外楽しんでいるようで、岡崎もほっと一安心している。最初のデートからして、自分の趣味に無理やり付き合わせているという自覚があったの だ。
 今日はこの後、午後の予選を見たら宿に戻る前に少し景色の良い所に寄ろうと考えているが、それはまだ櫻花には内緒にしている。その時を思い浮かべて笑み がこぼれそうになるが、なんとか顔を引き締めて食事を続けることにした。