錦秋│02

 予定は未定とはよく言ったもので、午後の予選が終了したら宿の近くで紅葉狩りをしようと考えていた岡崎だったが、櫻 花の「明日はすぐ帰らないといけないんだし、もうちょっと遊んでいきましょうよ」の言葉で、頭の中でシミュレーションしていた動きが全て白紙となってし まった。
 日暮れまでサーキットで遊び、おかげで渋滞にもはまらずすいすいと進んで宿に着いたのは夕方の六時前。ここからどうやって挽回しようかと、ここにきても まだあれこれと考えを巡らせている。
 そんな岡崎の心の裡など知らない櫻花は、仲居さんに案内された離れの部屋を見て呆然と立ち尽くしていた。
「ちょっと贅沢すぎませんか?」
「そうでもねえよ」
 外はもう真っ暗なのだが、窓から見える景色は石灯籠の灯りだけで隣の離れの部屋の明かりは漏れてきていない。それだけ余裕を持った作りをしているのだろ うが、その空間の使い方がまず贅沢だと櫻花は思う。そして、部屋の中を見渡してみれば、広い居間とは別にベッドルームがあり、外には露天風呂までついてい る。
 岡崎はその辺に荷物を放り出してマッサージチェアに座っていた。背中をごいんごいんと容赦なく伸ばされ、思わず出る声に全て濁点がつきそうになる。
 櫻花はそんな岡崎に、ひとしきり探検を終えた部屋の感想を述べた。
「凄すぎて笑っちゃいますね」
「そうか?もうすぐ飯だから、それまでダラダラしといて……」
「痛そうですね」
「オッサンだから、身体もガタが来始めんだよおおおおおおお」
 ちょうどいい所にもみ玉がきたらしく、語尾がうなり声に変わる。今日も朝早くからサーキットまで車の運転をして、櫻花のエスコート、そして宿まで再び運 転という明らかに疲れが溜まりそうな一日だったのだ。無理もない。
「後でゆっくりお風呂に入って下さい。露天風呂、温泉らしいですよ?」
「なんで俺一人で入る設定になってんだよ、一緒に入るんだぞ」
「ええっ!?」
 二人で旅行するのはこれが初めてではないし、家でもたまに一緒に風呂に入っているというのに、いちいち驚く櫻花が可愛くて仕方ない岡崎は、時折うめきな がらあれこれ言っては櫻花を恥ずかしがらせている。
 岡崎は、こういう所がオッサンだな、と自分でも思っているのだが、引き所を見誤らなければ櫻花の可愛い姿を拝めるのでそれもまたよし、と開き直ってい る。そのさじ加減が一番難しく、下手を打てば櫻花を怒らせることになる。ただ、生活を共にするようになってから二十四時間一緒にいると言っても過言ではな い状況の中、益々櫻花ウォッチに磨きがかかったおかげで、その辺りの見極めは完璧だった。
 マッサージチェアがコース終了の合図とともに動きを止め、岡崎がよっこらと立ち上がる。ゴリゴリだった背中が少しは軽くなり、ふぅとひとつ溜息を吐く。
「次、櫻花な」
「はーい」
 コースを選び、スタートボタンを押す。ぐいんぐいんともみ玉が上下する度に、櫻花が眉を寄せる。声を出すのを我慢しているせいかその姿が妙に艶めいてお り、岡崎は思わず生唾を呑み込んだ。
 いかんいかんと煩悩を頭から振り払い、放り投げていた荷物を片付ける。予定が狂ってしまったからにはもう正攻法でいくしかないなと腹を括り、櫻花同様一 通り部屋の中を見て回る。
 十一月も中旬になると、山の中はとても冷え込む。庭にあるウッドデッキにある椅子に座ってのんびりするには、少し季節が進みすぎているだろう。庭をのん びり眺めるのは露天風呂の中からだな、という確認をしてから部屋に戻る。ほんのりと暖まった空気にほっとする。時計を見ればそろそろ夕食の時間だ。
「もうすぐ晩飯だぞ、終わりそう?」
「はい〜〜〜」
 マッサージチェアがまだ動いているので、返事をする声も揺れている。と、その直後ういいん、と動作が止まる。
「はぁ〜、気持ちよかった〜」
 うーん、と背伸びをしながらマッサージチェアから下りてくる櫻花は、どことなくすっきりとした表情に見える。岡崎より若いとはいえ、普段から仕事場でも そうそう身体を動かすこともなく、背中から首にかけて凝り固まっていても不思議ではない。
 これからはもう少し身体のケアもしないといけないね、などと話している所へ、食事の時間だという声がかかる。
 仲居さんに案内されて個室の食事処へと向かう。途中で他の宿泊客と顔を合わせることもなく不思議に思っていた櫻花が、案内してくれている仲居さんに聞い てみた。どうやらフロントから部屋までの動線が全て部屋ごとに独立しているようで、もし鉢合わせるとしたら玄関だけだという。それも、チェックアウトは部 屋で行うため、帰りに顔を合わせることはない。だから、何らかの事情で到着時間がずれた場合にのみ、玄関で他の宿泊客と会う可能性があるのだという。
 部屋数、というか離れの数は片手以上両手未満といったところなので、そういったことは滅多に起きない。場所も山の中で、車がないとたどり着けない。お忍 びで来るにはもってこいの宿なのだ。
 話を聞いた櫻花は納得半分、恐縮半分といった表情をしていた。他の人と出会わない理由は判ったが、自分のような人間がそんな大層な所へ宿泊していいのだ ろうかと思ったのだ。
 ちょっと岡崎の趣味に付き合っただけなのにこんなに贅沢な宿に泊まることになり、却って気を遣わせてしまったなぁ、と申し訳なく感じるが、案内された食 事処でいざ料理が出てくるとそんなことはすっかり忘却の彼方だ。
 先付けに始まり焼き物、煮物など和食の要素がふんだんに盛り込まれたコース料理は、山の幸だけではなく海の幸もたっぷり使ってある。海なし県とは言う が、今の保存・運搬技術があればどこであっても新鮮な海産物が食べられるのだから凄い時代になったものだ。
 美味しい料理と酒に舌鼓を打ち、デザートが運ばれてきたところで、岡崎がいつにない真剣な顔で居住まいを正した。それにつられて櫻花もピシリと背筋を伸 ばす。
「大事な話がある」
「はい」
「今日もこんな所までついてきてくれて嬉しいんだけど、本当に申し訳ないと思ってる。いつもいつも俺の趣味に付き合わせて振り回して、それなのに嫌な顔ひ とつせず付き合ってくれて、本当にありがとう。うちは実家があんなだし、俺自身もアレだからこれからも苦労かけるだろうなと思うけど、それでも俺には櫻花 が必要だ。だから……篠塚櫻花さん。結婚して下さい」
 岡崎の言葉に櫻花は驚き、次いでポロポロと涙が止まらなくなった。あまりに深刻そうだったので別れ話でも切り出されるのかと思っていたのに、最後に正反 対の言葉が飛び出して瞬時に意味を理解できなかった。そして、その言葉を何度も何度も咀嚼した結果、あふれ出る涙を止めることができないでいるのだ。
「わたっ……私っ、そんな、全然っ……!」
「泣かなくていいから、落ち着いて、な?」
「……っ、はいっ」
 向かいに座っていた岡崎が慌てて駆け寄り、背中をさすってなんとか櫻花を落ち着かせようとするのだが、櫻花は逆にその手の温もりを背中に感じて、更に涙 腺が緩くなる。
「おいぃぃぃ、なんで泣くんだよぉぉぉ」
「うぇっ……だめ……ごめっ、ごめんなさ……っ」
 岡崎は、一向に泣き止まない櫻花の頭を抱えてよしよしと撫でさする。櫻花はそんな岡崎にしがみついてぐずぐずと泣いているが、ひとしきり泣いてようやく 落ち着きを取り戻したのか、岡崎のお腹に顔を埋めたままもごもごと言い訳をしている。
「なんだよ、よく聞こえねぇよ」
「泣いちゃってすみませんでした」
「ったく、泣くほど嫌かよ」
「違います!嬉しかったんです!」
 泣きはらした目で上目遣いされて平静でいられる人物がいたら、そいつはきっと鋼の精神を持った賢者か仏ぐらいなものだろう。だからここでそういう気分に なってもそれは仕方のないことだ。でも俺は良識ある大人だ、なんとか耐えてみせる――岡崎が頭の中で煩悩と戦っている間も、櫻花はすんすんと鼻をすすりな がら岡崎を見上げている。その視線に狼狽えながら、なんとか言葉を絞り出す。
「で、答えは?」
「え?」
「俺、さっきプロポーズしたよな?」
「あっ……泣いてスッキリしたらすっかり忘れてました。えへへ」
 えへへじゃねえよ、と喉元まで出かかった言葉をなんとか呑み込み、可愛らしい笑顔には騙されないとばかりに、再度返事を促した。
「えっと、私はいつも威夫さんに助けてもらってばかりで、これから少しでもそれを返していきたいです。だから、末永くよろしくお願いします」
 その言葉を聞いた岡崎は一瞬呆け、そしてぎゅう、と櫻花を強く抱きしめた。本当はこの場でキスしたいぐらいなのだが、いくら個室とはいえ食事処でそれは いかがなものかと思いとどまった結果、力一杯の抱擁に落ち着いたのだ。
「く、苦しい……」
「ああ、悪ぃ。嬉しくて、つい……でも、本当にいいんだな?もう取り消しできねえぞ?」
「しませんよ」
「あの母ちゃんと付き合っていくんだぞ?」
「葵と眞冬に作ってくれたお菓子を見れば、すごく優しい人だって判りますよ」
「面倒臭ぇ会合に呼ばれる可能性もあんだぞ?」
「そこは威夫さんにも助けてもらいます」
「俺、だいぶオッサンだぞ?最近白髪生えてきたし……」
「威夫さんはオッサンじゃなくてイケオジですよ!何言ってるんですか!」
「なんだそれ?」
「イケてるオジさまのことです。俳優さんでいうと、ショーン・コネリーとか……」
「俺あんなにハゲてねえよ!?」
「ええと、その、そう!ヒュー・ジャックマンとか!」
「俺あんなに胸毛モジャモジャじゃねえし……」
「ああん、もう!ちょっとは自覚して下さい!社員食堂で若い女子社員達の『岡崎課長、最近渋みが増しててかっこよくない?』『わかるー!あの憂いを帯びた 目元とかマジやばい』『女遊び激しいって噂あったけど、今なら解るわ』とかいう会話を聞かされる私はどうしたらいいんですか!?」
「なんか……ごめん」
「それに、そんなに念押ししなくてもいいです。ていうか、私の方こそ今更『やっぱなし』って言われても許しませんからね?」
「わかった、サンキュー」
 岡崎は再び櫻花を抱きしめ、これからの段取りを考える。まずは櫻花の実家に挨拶に行き、その後は自分の実家へ。式の場所は櫻花の実家と決めているから、 その話もして来なければならない。それに、秋に都内で披露宴をするという話も進めなければならない。
 やることは多いが、その全ては今後の新生活のためだと思えば楽しみでしかない。新生活といっても変わるのは戸籍ぐらいなものだが、たかが紙切れ一枚を役 所に提出することで法律的に変わることは多岐に亘るのだ。
 そして何よりも一番大事なことがあったのを思い出し、未来に思いを馳せてニヤニヤしていた岡崎はビシリと顔を引き締めた。
「櫻花、大事なことを忘れるところだった。婚約指輪なんだけど、そのネックレスとお揃いでもいいか?」
「え?」
「ネックレスは服を着ちまえば隠れるけど、指輪はそうはいかねえだろ?だから、デザイン的に気に入らないとかそういうのあったら言って欲しいんだけど」
「いやいやいや、あんな高そうなの駄目ですよ!」
「給料三ヶ月分て言うだろ?」
 そう言いながら両頬に手を添えてじっと見つめられると、櫻花はそれ以上反論できなくなってしまう。しかし、今日も着けているペンダントトップと同じデザ インということは、かなり豪華な婚約指輪になるということだ。岡崎のことだから、婚約指輪を渡したら毎日はめて会社に行くように、と言うに決まっている し、会社にそんな大きな宝石のついた指輪をして行きたくはない。
 なんとか思いとどまってもらおうと、あれこれ代案を出してみるもその全てを却下されてしまう。
「えっとえっと、じゃあ、指輪の側面に桜の意匠を彫刻して、石は赤からピンクのグラデーションにしたらどうですか?」
「お?それいいな。よし、じゃあその方向でデザインしてもらうか!ああ、もちろん櫻花も立ち会うんだぞ?」
 何やら話が大きくなってしまったが、それでも、最初に言われた物よりは大人しい指輪になるだろうと諦めることにした。
 二人は食べかけのデザートを綺麗に片付け、すっかりぬるくなったコーヒーを飲むと部屋へと戻ることにした。廊下を歩きながら、せっかく美味しい抹茶ティ ラミスを出してくれたのに、申し訳ないことをしたと反省していた。もう少しタイミングを考えれば良かったと岡崎が項垂れ、朝ご飯は全部美味しく頂きましょ うねと櫻花が慰める。
 その後、櫻花が実家に連絡を取り、翌週末に山梨行きが決定した。それを受けて岡崎の実家へは二週間後に顔を出すことになった。指輪のデザイナーの所へは 四日後、水曜日の終業後に行くことで話がついた。
 急速に話が動き出したせいで忘れそうになっているが、明日もう一度サーキットへ行き、レースの本番を観戦するのだ。それに、デッキに設置されている露天 風呂も楽しまなければならない。
 世界から隔絶されたかのように静かな旅館の夜を、二人は心ゆくまで満喫するのだった。