錦秋│03

「うわあ、綺麗……」
 翌朝、晴れ渡った空の下、ようやく庭の全貌を目にすることになった櫻花の第一声である。赤や黄色に色づいた木々、秋晴れの空。その全てが美しく、まるで 自分達を祝福してくれているようだった。
 せっかくだからということで朝風呂を堪能し、昨夜と同じ食事処で朝食をいただく。旅館の朝ご飯というのはどこも似たり寄ったりのメニューになるもので、 ここも例外ではないようだ。ただ、それが途轍もなく美味しそうなのだ。
 メインの大ぶりの焼き鮭には大根おろしが添えてある。これだけでお腹いっぱいになりそうなのだが、小鉢としておぼろ豆腐の海老あんかけや小松菜のおひた し、蓮根のきんぴら等が控えている。もちろん香の物もあるし、温野菜サラダもある。忘れてはいけないだし巻き卵は大きめのものが二切れ、朝食のお供の定番 である海苔や納豆、生卵も用意されていて、土鍋で炊いた炊きたてご飯にきのこたっぷりの味噌汁というラインナップは、ごく普通のはずなのにとても美味しそ うに見える。
 器や盛り方、配置にも理由はあるのだろうが、旅館の朝食というジャンルそのものが人をわくわくさせるものなのかもしれない。
 食後に出された水菓子まで綺麗に平らげて、お腹をパンパンにさせて部屋へ戻る。出発までまだ時間の余裕があるとはいえ、これは少しばかり食べ過ぎたと座 椅子に座ってぐえぇ、となる。
「ちょっと調子に乗りすぎましたね」
「美味かったし仕方ねえだろ。あの豆腐、美味かったなぁ」
「中に湯葉が入ってましたね」
「しかも上にかかってたあんかけ、すっげえ出汁きいてたな」
「でもその出汁に海老が負けてなかったのも凄いですよ」
「櫻花は何が一番美味かった?」
「私は味噌汁が……」
「えぇー?」
「だって、中に今まで見たことのないようなきのこが入ってたんですもん」
「確かに。あの白いふにゃふにゃしたのとか」
 ぐってりとしながら美味しかった朝食を振り返る。鮭の切り身が厚かっただの、だし巻き卵がふわふわだっただのと、まるで食べ過ぎた言い訳大会を開いてい るかのようだ。
「あと最後に出てきた柿!あれすっごく美味しかったです!」
「あの固さであの甘さ、なかなかの逸品だったな」
 今時なかなかお目にかからないゴリゴリに固い柿を思い出し、自宅に帰ってからもなんとか似たものが手に入らないだろうかと相談し合う。
 そんな感じでダラダラしているうちに、チェックアウトの時間が近づいてきた。櫻花は慌てて身支度をし、忘れ物がないか確認をする。そして最後に庭の写真 を撮り、満足げに頷いた。
 それを微笑ましく見ていた岡崎は、ああ、幸せだ、と心の底から感じていた。当たり前のように櫻花がそこにいて笑っていることが、どれほど貴重で幸せなこ とか、改めて思い知った気がしているのだ。



 丁重な見送りを受けて宿を後にした二人は、一路ツインリンクもてぎへと向かっている。その車中でのこと。何気ない会話の流れから、お互いいつ相手を意識 し始めたのかという話になった。
「ぜってー俺の方が先だと思うんだよな」
「え〜?そんなことないですよ、絶対私の方が先です」
「ほほーう、じゃあ何がきっかけだったかお互いここで暴露しようや」
「えっ……それは……」
「なになに?自信ねえの?」
「そっ、そういう訳じゃないですけど!」
「俺もぶちゃけるんだから、いいじゃねえかよ」
 そう言われてしまっては仕方がない。櫻花は、渋々ながらも“その時”のことを語り始めた。



 配属後の挨拶でやらかしてから早半年が過ぎ、当たり前だが今年も年末が近づいてきている。嫌だと思っても時が流れるのは止められない。
 櫻花は日に日に落ち込んでいた。どうしてあんなバカなことを言ってしまったのだろう、と思っても今更どうすることもできない。仕事はそれなりに順調で、 少しずつ楽しさも見えはじめているというのに、ここにきて過去の自分の発言に足を引っ張られている状態だ。
 とはいえクリスマスが嫌いなのは変えようのない事実で、それが子供の頃のトラウマが原因とあっては考えを改めるのも容易ではない。徐々にクリスマスムー ドに染まっていく社内で、どう過ごすべきか頭を悩ませていた。
 大人として、そして社会人として、自分が嫌いだからといって嫌な顔をするのはよろしくないというのは理解しているし、そうしているつもりなのだが、どう もその努力が実っていないようなのだ。
 先輩方に生暖かい目で見守られているのを肌で感じ、どうにも情けなさが先に立つ。どうしてポーカーフェイスすら出来ないのかと落ち込み、せっかく楽しく なってきた仕事にも身が入らない始末。そんなある日のこと。
「篠塚、ちょっといいか?」
「あ、はい。なんでしょう?」
「今日の昼飯付き合え」
「はい、解りました」
 岡崎に昼食に呼び出された。それ自体はよくあることで、他の先輩社員達も岡崎や牧野など、主任・係長に呼ばれては昼食をご馳走になっている。特に理由も なく誘われることもあるがそうではない場合も多いので、櫻花は何か失敗をしたのではないかと戦々恐々としていた。
 櫻花も何度か来たことのある「ごはんや」で、主任と差し向かいに座っている現状を、これは一種の面談なのではないかと感じていた。何か仕事でやらかした のかと思ったが、よく考えてみればそこまで大事なことは任せられていない。では一体なぜ、と考えるが、特にこれといって思い当たる節がない。
 料理を注文し、店員がテーブルから離れると妙に気まずい空気が漂っている気がして、櫻花は俯いたまま顔を上げられないでいた。
「最近暗い顔してるけど、何か職場で嫌なことでもあるのか?」
 核心を突いた質問に、櫻花はますます落ち込んだ。そんなに判りやすい態度を取ってしまっていたのかと情けなくなったのだ。
「申し訳ありません……」
「謝らなくていい。アレが近づいてるからなのか?」
「……はい。自分でもこれじゃいけない、ちゃんとしなきゃ、って思うんですけど、どうも顔に出てしまっているようで、もうどうしたらいいか解らなくなっ て……」
 ずばり言い当てられてしょんぼりと肩を落とす。こうなってはもうこの職場にはいられない、とさえ思えてくる始末だ。
「辞めるなよ?」
「えっ?」
「今一瞬そんなこと考えたろ?でもな、人と違うってことはうちの課では強みになる。例えそれが嫌いなことや苦手なことであってもな。だから、それを逆手に 取って自分を伸ばしていくんだ。そうすればもっともっと気楽に仕事ができるようになるぞ」
 岡崎のその言葉を聞いて、櫻花はこみ上げてくる涙を堪えるのに苦労した。おかげで喉元と横隔膜が引きつり、痛みとしゃっくりに耐えることになる。それで も、昼食時の食事処で、ボロボロと涙を零して泣くわけにはいかない。
 櫻花は目を瞑り深呼吸をした。そうやってなんとか心を落ち着かせ、ゆっくりと目を開けた。そこには先ほどと変わらない顔をした岡崎がいた。笑うでもな く、慰めるでもなく、ごく自然のまま櫻花が落ち着くのを待ってくれていた。
 どうしてそんなに自分の気持ちを理解してくれるのだろう、とか、上司とはいえどうしてここまで良くしてくれるのだろう、とか、考え出したら気になる点が 多々あるのだが、そこについては今は考えないことにした。そして、岡崎の言葉で気持ちが軽くなったことに対してまだ何も言っていないことに気付き、まずは そこからこなしていくことにした。
「あの、主任、ありがとうございました。おかげで目の前が開けた気がします」
「そんな大げさな。でも、篠塚がやる気になってくれたなら良かったよ」
「本当に申し訳ありませんでした」
「謝るなって。ほら、飯来たぞ。食べよう」
「はい」
 ちょうど食事が運ばれてきたことにより、櫻花の謝罪もそこまでとなった。後は和やかに談笑しながら昼食を摂り、ついでにこれからの方向性等についても少 し相談し、櫻花は午前中までの鬱々とした雰囲気はどこへやらといった顔をしていた。



「ということがあったんですけど、覚えてますか?」
「覚えてるよ」
「あの時、どうしてこの人はこんな的確に私のことを救い出してくれるんだろう、って感動したんですよ?で、そう思うと段々気になってしまって……。だか ら、絶対私の方が先ですよ」
「ふふっ、残念だったな。俺の勝ちだわ」
「え?」
「俺は、配属日の挨拶で『クリスマスが嫌いです』なんて言う変わった子が来たから気になって見てたらいつの間に、だからな」
「は!?」
「あの時はまさかこんなことになるなんて思ってもみなかったけどな!ははは!」
「いや、ちょっと待ってください、それ一体どういう……」
 櫻花は混乱していた。自分が先に好きになったという絶対の自信が、岡崎の爆弾発言によって覆されたのもさることながら、自分の中では黒歴史だと思ってい た発言がそのきっかけになったという、なんとも認めたくない事態が起きているのだからそれも仕方のないことだろう。
 一方岡崎は、いつこの話を持ち出すか、付き合い始めてからずっとタイミングを見計らっていたので、櫻花の思い出話を聞いている間も真顔を保つのに必死に なっていた。少しでも気を緩めれば顔がにやけそうになるのだ。おかげで櫻花の話を聞きながら一緒に想い出に浸ることもできず、その点に関してはかなりもっ たいないことをしたと思っている。それでも、櫻花を驚かせることができて満足していた。
 上機嫌でハンドルを握る岡崎の横で、櫻花はぷるぷると震えている。この話題で完敗した上に、今でもなかったことにしたいと思っていたあの発言をこんな形 で救ってくれるなんて思ってもいなかったからだ。あの「クリスマスが嫌いです」があるから今がある、と言っても過言ではない。
 一体この人はどこまで自分を助けてくれるのか、と思うと頭が上がらないし、一生ついて行こうとも思う。そして、少しずつでも何かを返して行かなければな らない、と強く心に誓うのだった。
 そうこうしているうちに車はツインリンクもてぎに到着した。まだ午前中だというのに大勢の人で賑わっており、昨日よりも混雑していた。
「やっぱり昨日のうちに遊んでおいて正解でしたね」
「そうだなぁ」
「今日もお昼ご飯ついているんですか?」
「ついてるぞ。なんでだ?」
「せっかくだからあの辺のお店のご飯も食べてみたかったなぁ、なんて……」
「あー、そりゃそうだよなぁ。よし、とりあえず今日のところはついてる昼飯で我慢して、次に別の所行った時にチャレンジしよう」
「そうですね、そうします」
 櫻花は其処此処の店に出来ている行列を羨ましそうに眺めながら、岡崎に手を引かれて歩いていく。その手を見ながら「こういうのも随分当たり前になった な」としみじみと思う。それを恥ずかしいと感じなくなった辺り己の恋愛偏差値が上がったのではないか、と少しだけ威張りたくなるが、それを言うと岡崎にも 尚美にも笑われそうなので自分の胸の中にそっと仕舞っておくことにした。
 ガラス張りのVIPスイートルームも昨日より人が多い。恐らく日曜日だけ見て帰るという贅沢をする人達が多いのだろう。櫻花は貧乏性なので「土日どっち も見られるチケットなら両方来ないともったいない」と思うのだが、こんな高いチケットをポンと買うような人はそうでもないらしい、と納得することにした。
 世の中には贅沢な人もいるんだなあ、などと櫻花は思っているが、国内レースのスイートルーム料金など国際規格のレースに比べると一番安い席と同等の価格 なのだ。だからあまりもったいないという感覚がない人も多そうだ。もちろん両日来るつもりだったのにどうしても来られない事情というものがある人もいるだ ろう。それでも、国際規格のレースに通い慣れてしまうと、金銭感覚が麻痺してしまうのかもしれない。
 今日は人が多いのでさっさと席を取らないと、ということで岡崎が応援しているチームのピット前の席を確保する。思い通りの場所だったのか、目をキラキラ させてガラスの向こうを見ている。櫻花はその姿を見てくすりと笑い、こんな可愛い一面を知っているのは身内だけだと謎の優越感に浸っていた。
 昨日同様、栃木産の野菜や肉などをふんだんに使った豪華な食事を摂り、レースがスタートするのを今か今かと待っていると、何やらセレモニーが始まった。 起立脱帽を促され、国歌が流れる。これまでこういった場に居合わせたことのなかった櫻花にとって、観客が神妙な顔をして君が代を聴いていたり、人によって は口ずさんでいたりするのを見るのはとても新鮮なことだった。
 着席してからも新たな体験にほわわんとしている櫻花にはお構いなしにセレモニーは進行してゆき、コース上に置かれた車にできていた人だかりも消えてい る。
「もうスタートですか?」
「ああ」
「それにしてはゆっくり走ってません?」
「これはフォーメーションラップって言って、コースを一周回ってスタート位置に辿りついたのが、最終的なスタート順なんだよ」
「なんだか面倒くさい話ですね」
「だけど、実際それで走り出せない車があったりするんだよ」
「アクセル踏んでるのにですか?」
「アクセル踏んでるのにだよ」
「なんだか最初に思ってたのと違って、奥が深いですね」
 ただ車を走らせるだけのものだと思っていたモータースポーツが、昨日今日と連日話を聞いていくうちに、色々と興味が湧いてきたのだ。冬はオフシーズンと いうことなので、来年になったら他のレースにも連れて行ってもらいたいとすら思い初めている。
 そうやって春以降のことをぼんやりと考えていると、昨日決まったばかりの、一生に一度の大きな行事が控えていることを思い出した。今はまだ実感がないた め、楽しみと不安が半々といったところだが、この先どんどん話が進み本格的な準備期間に入ると、恐らく“大変”の一言に尽きることになるだろう。
 だが、先のことをあれこれ考えるよりもまず、今を楽しむことにした櫻花は、スタート位置に戻ってきた車達がブオンブオンと大きな音でエンジンをふかして いるのをじっと見つめる。場内アナウンスの声もかき消され、シグナルが消えると同時に一斉にスタートをした。
 ごちゃごちゃと団子状態になりながらも一台、また一台と集団から抜け出して縦長の列になっていく。
「マラソンなんかもこんな感じですよね」
「ああ、列ができる過程が?そうかもな。ただ車は並列じゃ走れねえから、どうしても一列になっちまうけどな」
「あんなに幅があるのに、どうしてですか?」
「コースはグネグネ曲がってんだろ?そこをなんとか最短で走ろうと思ったら、一本道が出来るんだよ。みんなが同じラインを走ると、そうじゃない所にどんど んタイヤのカスとか巻き上げられた埃とかが溜まってくことになる。そんな汚い所を走ると、どうなると思う?」
「うーん……車が汚れる?」
「はははっ、確かに!」
 かなりご機嫌な岡崎は、櫻花の答えに妙に納得しつつ本当の答えを説明する。そして、その競技に詳しくない人間と観戦していると、こういう突飛にも思える 言葉を聞かされて考え方の勉強になるな、などと仕事に対する心構えのようなものを再認識していた。
 クリスマスの件といい、今の受け答えといい、櫻花と一緒にいると「そういう考えがあったのか!」と目から鱗が落ちることが多々あるし、一緒にいるだけで 自分にプラスになる存在だから絶対に手放してはいけない、と固く心に誓う。そして、幾ばくかでも何かを返していけたらよい、とも思っている。
 櫻花も岡崎も、お互い相手から貰うばかりで自分は何も返せていないと思っている。そして二人とも「このままではいけない」と考えているのも面白い。似た もの同士、結ばれるべくして結ばれた二人ということなのだろう。



 この後、レース終盤に岡崎が応援しているチームが怒濤の追い上げを見せ、見事な逆転勝利をおさめた。それを見ていた岡崎は子供のように大喜びで、ひとし きり興奮した後はずっと「ロニー凄ぇ、マジ凄ぇ」と呟いてしばらくの間放心していた。
 表彰式などが始まると正気を取り戻し、嬉しそうに拍手を送る。そしてそれが終わると、余韻に浸る間もなく帰宅することとなった。というのも、月曜日であ る明日は当然のように仕事がある。出発が遅れれば遅れるほど、帰宅も遅くなり明日への影響が出ることになるからだ。
 幸いなことに、このスイートルームは専用駐車場がすぐそばにあり、急げば渋滞する前に高速へ抜けることが出来るのだ。
 こうして二人は、非日常から抜け出して日常に戻って行くのだった。