錦秋│04

 櫻花は今、岡崎の知り合いだというジュエリーデザイナーの工房に来ていた。一度帰宅して着替えてから岡崎の運転する 車で連れて来られたのだが、着いたのは瀟洒な一戸建てで工房らしさの欠片もない所なため、櫻花はしきりに首をかしげていた。
「威夫さん、ここ本当に工房なんですか?」
「見えないだろ?まあ入れば判る。いくぞ」
 そう言った岡崎がチャイムを鳴らしてその場で待っていると、間もなくガチャリとドアが開いて四十がらみの男性が現れた。
「いらっしゃ〜い!ささ、入って入って」
 櫻花はダンディなその男性の口から飛び出した言葉に面食らいながらも、岡崎が気にも留めていないのを見てなんとなく事情を察して言われるがままに玄関で 靴を脱ぐ。
 男性に案内されたのは食堂で、テーブルには食器類がセッティングされていた。
「あの……」
「ああ、これ?うちはお客様にお食事してもらいながらお話を聞くのよ」
「そういうこと。ほら、早く飯、飯」
「んもう、威夫ちゃんは少しは遠慮ってものを知った方がいいわよ?」
「でもさっきからいい匂い漂わせてんだもん。腹減ったー。早く飯ー」
 確かに食堂に入った時から食欲を刺激するいい匂いがしていた。
「じゃあ座って大人しく待ってなさいな。すぐ準備しちゃうから」
「あ、私、手伝います」
「いいのよ、お客様は座ってて」
 有無を言わせぬその圧力に負けた櫻花は、大人しく座っておくことにした。出されたお茶をすすりながら食堂を見回せば、ごく一般的な内装でこれといって特 に工房らしさは見当たらない。どう見ても普通の住宅で、先ほど岡崎は「入れば判る」と言っていたが、ここまで全く判らないままだ。しかも夕食までご馳走に なるなんて予想もしていないことまで起きてしまっている。
「だいぶ混乱してるみてぇだな」
「そりゃそうですよ……もう何が何やら」
「はははっ」
 二人がコソコソと話をしている所へ、先ほどの男性が料理を運んできた。
「はーい、お待たせ〜」
「おおっ、今日はロールキャベツか!」
「そうよ〜。いっぱい食べてね」
 櫻花たちの前に並べられたのは、数種類のロールキャベツにサラダ、ほうれん草の白和え、ごはんに大根と油揚げの味噌汁という、ごく普通の家庭料理だっ た。
 とはいえ、ロールキャベツが複数種類あるのは普通ではない。
「ええと、これ全部ロールキャベツですよね?」
「そうよ。こっちからトマト、コンソメ、味噌、カレー、醤油味よ。中身もちょっとずつ変えてあるから、それも楽しんでね」
 トマト味やコンソメ味は食べたことがあるが、味噌やカレー、醤油というのは初めての体験だ。ひとつひとつはそう大きくないので、五つあってもペロリと食 べられそうである。
 いただきます、と手をあわせるとまずは味噌汁を一口すする。大根の苦味がほんのりと香ってきて、味噌が甘く感じるから不思議だ。一息ついて今度はロール キャベツをいただく。これだけ種類があるとどれから手をつけるべきか迷うところだが、ここはひとまず定番のトマト味からいくべきだろうと考えた櫻花は、一 番左の皿のロールキャベツに箸を入れる。柔らかく煮込まれているせいかすんなり半分に切れたそれを口に入れると、じんわりとした肉の旨みとキャベツの甘み がトマトの酸味とマッチしていて、よく知っている味ながら非常に美味しい。
「はぁ〜、美味しい〜」
 櫻花が思わずといった感じでそう言うと、向かいの席に座っていた家主の男性が嬉しそうに笑う。
「ありがとう!あなた、威夫ちゃんから聞いていた通り素直でいい子ね!」
「オッサンうるせーぞ」
「あの、威夫さんに聞いていたってどういう……?あ、そういえば自己紹介を忘れてました。篠塚櫻花と申します。よろしくお願いします」
「あらやだ、アタシも名乗ってなかったわね。柴田義史よ。よろしくネ」
「あの、お二人はどういうお知り合いなんですか?」
「ンマー!威夫ちゃんたら何も話してないわけ!?あ、櫻花ちゃんはそのまま食べてていいのよ。こっちで勝手に話すから」
 そう言われた櫻花は、今度は味噌仕立てのロールキャベツを食べることにした。こちらの中身は牛肉ではなく豚肉で、小さく刻んだこんにゃくやごぼう、人 参、大根、ねぎなどが混ざっていて、これは形を変えた豚汁のようなものなのだな、と納得しながら咀嚼をする。そしてこれが実に白米に合う味付けになってい て、この一品だけでお茶碗二杯はいけそうな気がしてくるから恐ろしい。
 次は少し七味をかけてみよう、と決めておいて、今度はこれまた珍しいカレー味に挑戦する。
 櫻花が夢中になって食事をしているのを見て、柴田は実に嬉しそうな顔をしていた。
「これだけ美味しそうに食べてくれると、作り甲斐があるってものよね!そうそう、アタシと威夫ちゃんの関係だったわよね?ええと、ねえ、これどこまで話し ていいの?」
「大丈夫、全部だ」
 二人が知り合うきっかけとなった出来事を全て話すのはまずいのではないか、と考えた柴田だったのだが、岡崎の言葉を聞いてあんぐりと口を開けて動かなく なってしまった。
 しばらくそのまま固まっていたのだが、はっと我に返って本当に全部話していいのかと岡崎に目で訴えかけた。だが岡崎は肩をすくめるだけで我関せずといっ た顔をしてサラダを貪っている。
 本来なら墓まで持って行きたいであろう黒歴史を、他人の口から包み隠さず話してもいいということは、もう既に本人が打ち明けているということだろう。そ れだけ岡崎の本気度が高いということを見せつけられて、少しほっとしたというのも事実だ。こいつは一体この先どうなってしまうのだろう、という危うさを内 包していたのだが、それもすっかり消え去っている。
 ということで安心して知りうる全てを話すことにした柴田は、つい最近の出来事のように感じる十年と少し前の思い出を意気揚々と語り始めた。
「あれは威夫ちゃんがまだ大学生の頃だったかしらね。アタシが行きつけにしているバーにふらりと立ち寄った威夫ちゃんが、カウンターの隣の席に座ったのが 始まりだったわ」
「へぇ〜」
「なんだか凄くやさぐれてててね、あまりにも酷い飲み方をしているから声かけたのよ」
「そんな威夫さんは想像つかないですけど、もしかして怪我をした直後だったとかですか?」
「そうね。松葉杖は使っていなかったけど、歩きにくそうにはしてたかしら」
「就職活動が上手くいってなかったんですね、きっと」
「そうなのよ。あと、まだ野球に未練も残ってたんじゃないかしらねー。それでその店で会うと挨拶するようになったんだけど、その頃はお互いのことなんて何 も話をしていなかったのよ。だってこの子、いっつもそこのバーに来てる女の子を持ち帰ってさ。まあ一定期間同じ子と、って感じだったから二股かけたりはし てなかったみたいなんだけどね。そんなヤリチン、あんまり深く知りたいとは思わないじゃない」
「それは確かにそうですね……」
 岡崎は櫻花と柴田の会話を聞きながら、当時を思い出しているのかさすがに居心地が悪そうにしているが、それでも箸を止めることはせず黙々と食事を続けて いる。
「だけどそんなある日、すっごく暇そうにしてるのよ。だから『いつもの子はどうしたの?』って訊いたら『振られた。遠恋してた彼氏と結婚するんだと』って 言うじゃない?アタシもう可笑しいやら可哀想やらで、根掘り葉掘り話を聞いて、そこからよ。仲良くなったのは」
「いつも振られてたっていうのは本当だったんですね……」
「嘘だと思ってたのかよ!?」
「だって、こんな素敵な人を振るなんて私には考えられないですもん」
 岡崎に聞かされていた話で唯一納得できていなかった所だったようで、それが事実だと判明したことに櫻花は驚きを隠せない。割り切った大人の関係とはい え、自分だったら絶対本当に好きになってしまうのに、と思うのだ。
 だからかつて岡崎が身体目当てがどうのと言っていたのだと、今更ながらその言葉の意味を理解した。
「で、アタシもつられて色々喋っちゃって、今じゃこんな仲よ。そうそうそれでね、櫻花ちゃんの話が話題に上るようになるにつれ、女の子達と疎遠になって いってね。ひょっとして片想いのまま枯れちゃうのかしら、って心配してたのよ。そしたらあなた、いきなり『桜がモチーフのペンダントトップを作ってく れ!』って言ってくるじゃない。アタシもう張り切っちゃってさー!どう、それ?気に入ってくれた?」
 柴田は、櫻花の胸元で揺れる桜のペンダントに目をやりながらそう訊いた。
「これ、柴田さんが作って下さったんですか?凄く気に入ってます!ありがとうございます!ただ……」
 これをそのまま指輪にされるのはちょっと、と項垂れる。デザインはもの凄く気に入っているのだが、会社にして行くのには大きく派手な指輪は困るのだと訴 えた。
 常につけていられるように立て爪ではなく、あまり目立たないように石は大きくなく、しかし桜をモチーフにするということは譲れない。そして、できれば結 婚指輪と一緒につけた時に一体感があるものがいい。櫻花はなんとも難しい注文をつけるのだが、柴田はそれをふんふんと聞きながら、手元に置いてあったス ケッチブックにサラサラとデザインを起こしていく。
 櫻花には食事を続けるように言い、途中何度か質問をして、その答えに従ってデザインに手を入れる。櫻花と岡崎が夕食を終えた頃、柴田の手も止まり最初の デザインが出来上がった。
「こんな感じでどうかしら?」
 柴田が見せたデザインは桜の花弁を模ったもので、ピンクダイヤを花びらの形にカッティングしたものを埋め込んでいる。大半は婚約指輪の側にあるのだが、 一部が結婚指輪にはみ出していて、婚約指輪と結婚指輪、二本一組でつけて初めてその全体像が判るようになっているのだ。
 これならばデザイン的にはペンダントトップとお揃いだが、石は小さいし埋め込みタイプなので邪魔にもならない。櫻花は一目でそのデザインを気に入り、こ れにして下さい、と即答した。
「じゃあ、早速作業に入っちゃうわね。ああ、そうそう、その前に。一応ちゃんとサイズを測っておかないとね。二人とも手ぇ出して?」
 リングゲージで左手薬指のサイズを測られている間、岡崎は柴田に何やら耳打ちをしている。何やらよからぬことを企んでいるようだが、まさか今更決定した デザインを変更するなどということもなかろうと、櫻花は聞き耳をたてることなどせずにいた。
 ウキウキとスキップなどしながら奥に引っ込んだ柴田と入れ替わるように、綺麗な大人の女性が食堂へ入ってきた。櫻花達が平らげた食事の皿を下げ、コー ヒーを淹れてくれる。お手伝いさんにしては仕事着といった感じの服ではないし、一体この女性は何者?と櫻花が密かに頭を悩ませていると、岡崎が可笑しそう にくくくと笑う。
「ねえ、芙美子さん。櫻花が混乱してるから自己紹介してもらってもいいですか?」
「あらやだ、ごめんなさいね。柴田芙美子と申します。貴女のことは義史さんから聞いているわよ。岡崎くんの“桜の君”なんですってね」
「桜の君!?」
「うちの旦那様、そういうあだ名付けるのが好きなのよ。困ったものよね」
「旦那様、ですか」
「ええ。岡崎くんも貴女の旦那様になるのでしょう?そういう意味の、旦那様」
「……っ!?そ、そうなんですか……」
 そこで岡崎が堪えきれないといった様子で腹を抱えながら大笑いを始めた。
「あーっはっはっは!あの柴田のオッサン、あんな口調だけど、あれ、営業用だから」
「営業、用……?」
「ジョーカーってブランド聞いたことあんだろ?あれ、あのオッサンのブランド」
 それはここ十年ほどで急成長した宝飾品のブランドで、銀座に構えた店舗には連日女性客が押し寄せているという話は櫻花も知っている。というのも、店舗は その一店舗だけで通信販売もやっておらず、商品を手に入れたければそこに行くしかないという希少性が顧客の購買心をくすぐっているのだ。
 だが、本当の理由はもっと別のところにある。店舗に並ぶ商品は量産品で、デザインも社内のデザイナーが手がけたものがほとんどだ。そんな中、経営者兼 チーフデザイナーが自らデザインから製作までを手がけることがあるという噂があるのだ。そのチーフデザイナー本人が気に入った客でなければ購入のチャンス すらないということで、そのお眼鏡に叶おうと日参する女性が多いのだ。
 自分には関係のない世界の話だからと、その話を聞いた時もデザイナーの名前にまでは興味を抱かなかった。それがまさか先ほどの柴田義史だったとは、櫻花 は今度こそ驚きでしばらく声が出なかった。
 柴田の自宅兼工房を辞した後も、櫻花は車の中でぼんやりしていた。情報過多でうまく処理が追いついていないのだ。
「俺だってオッサンがこんなことになるなんて思ってなかったんだよなぁ。知り合った時は売れないジュエリーデザイナーつってたし、事実あんまし売れてな かったみてーだし。それが奥さんの芙美子さんと結婚してから、あれよあれよという間に業績伸ばしてんだもん。あの奥さんすげえよ、やり手経営者なのはオッ サンじゃなくて芙美子さんの方だな」
 櫻花としては楽しげに笑っている岡崎には訊きたいことが沢山あるのだが、今はとりあえず自分の頭の中を整理することに専念して、帰宅後風呂にでも入って 落ち着いてから一つ一つ問い詰めることにした。きっと答えてくれない質問もあるだろうが、とりあえず一言物申したい気持ちは発散しておかねばならないと思 う。
 それでも、とても素敵な婚約指輪と結婚指輪になりそうで、その点に関してだけは不安もなくただ楽しみに待つことができそうだった。